寺木定芳(1883-1977)の佐藤運雄評。
寺木は東京歯科医専で矯正学を教えていた。
「神経衰弱」。中傷も借金も平気の、図太いタイプではなかったようだ。
なお、昭和27年の暮れには、佐藤運雄と奥村鶴吉の間を日本大学歯学部と東京歯科大学の両同窓会幹部が取り持ち、食事をしたという。
寺木定芳
佐藤さんも奥村さんも頭の鋭い人で、歯科界には珍しいと思うくらいです。今後ああいう人は出ないのではないかと思われます。
奥村さんはまことに即答的な、いわゆる歯に衣を着せずというタイプで、何でもいいたいことをいう。自分の思っておることに対しては、信念をもって突っ込んでいくという奥村さんでした。
そこにいくと佐藤さんはまことに温容で、その時から大人の風をなして、あのとおりにやにや笑うと、私はしょっちゅうものに書いたり、口でいったりしておるけれども、あなた方御承知のように目じりに無数のしわがよる。あのしわは何ともいえないやさしさで、人になつかしさを与えるしわで、佐藤さんが笑われるととろっとなる。
寺木は東京歯科医専で矯正学を教えていた。
そのうち佐藤さんと奥村さんは両雄ならび立たず、同じ頭を持ってどうしたってあそこで2人が併立というよりは、無理な状態が続いたらしい。(追悼座談会「佐藤先生を偲んで」昭和39年、日本大学歯学部六十年史)
そういう関係で、ただ上に血脇守之助という偉大なる人がおりまして、この人が奥村さんは自分の子飼いの弟子ですし、まるで小僧時代から育て上げたんですから、何といっても奥村さんが可愛い。佐藤さんに対して表向きどうするということもないのですけれども、奥村さんに対するよりはやや冷淡な態度もあったためではないかと私は想像する。
それで佐藤さんは、憤然として三崎町を飛び出しました。そうして私は記憶していないが、その時分小さな講習会みたようなものを、お興しになったんではないのですかね。
(略)
その当時の佐藤さんは、私の知っている限りでは2年間くらい猛烈な神経衰弱をやって、そのころおられました大森のお宅からとにかく一人では弥左衛門町(引用者註:佐藤運雄の診療所があった)に来られなかったんです。ひどい神経衰弱でしたよ。すっかりやせ衰えて、私なんか佐藤さんという人は神経衰弱でだめになるのではないか、と思っておりましたが、いつの間にか健康になってあんな長命になられたんです。
「神経衰弱」。中傷も借金も平気の、図太いタイプではなかったようだ。
なお、昭和27年の暮れには、佐藤運雄と奥村鶴吉の間を日本大学歯学部と東京歯科大学の両同窓会幹部が取り持ち、食事をしたという。
帰るときちょうど雪になり、東京歯科大学からは学校の自動車が迎えにきたが、われわれは佐藤先生と一緒に駿河台までぬかる道を歩いてきた。(深沢竜之介「14年間を顧みる」、日本大学歯学部六十年史)
ここで、ナニが何でも佐藤先生に同窓会として自動車を差し上げようというので、昭和28年4月1日に、先生に自動車を贈呈することができた。これが歯学部の自動車第1号である。