「大川周明日記」から、昭和22年12月分。進行麻痺で松沢病院に入院中である。極東国際軍事裁判での審理は打ち切りになったが、相変わらず大川は戦犯容疑者扱いであった。
11月に進行麻痺に対するマラリヤ熱療法が、今月は梅毒そのものを駆逐する治療が行われている。
大川周明、身長は180ぐらいあったという。
駆梅療法開始であるが、まだペニシリンが使用されていない。
かかりつけ歯科医は「陳先生」だ。松沢病院まで往診してもらうらしい。
サルバルサン治療中の抜歯はOKらしい。
12月12日は大川周明の逮捕日である。拘留も丸2年となった。
陳先生、印象ぐらいすぐ採ってやって。
極めてマトモな大川の戦争責任論。敗戦後、責任のなすりあいに終始した戦争指導者たちこそ国辱である。昭和天皇も占領終了後は速やかに退位すべきであった。それをしなかったことがキョービの右翼台頭の一因だと思う。
それはともかく――こういう境地に立てたことは、大川周明が理性を取り戻したということなのだろう。というのも、大川は極東国際軍事裁判開廷日初日に東条英機の頭を2度叩いて狂気をあらわにしてその結果免訴となるのだが、あの公の場で初めて見せた狂気こそ大川の真情だったと思うのである。なぜなら、東条英機の不明のために対中和平工作は失敗し、敬愛する石原莞爾も盟友の長勇も左遷されたからだ。長勇など勝算なしの苛酷な前線に飛ばされ、最後は沖縄とともに日本の捨石となったのだ。おい東条おまえだよ、おまえに石原さんや長君の言うことを判るアタマがあれば、無条件降伏なんつうことにはなってないんだよ――病で理性の枷をはずされた大川は、その私怨と義憤と皮肉をこめて、東条を裁いてみせた。全世界が注目する国際法廷で。
「逆瀬川」=大川塾一期生の逆瀬川澄夫。かつてタイで日刊紙を発行していた。
歯ナシで固形物が食べられない大川周明にスープ缶を持って来てくれたのは、
GHQの米国人だった。「研究所」とは大川塾のこと。
「コールフィールドさん」とは、
逆瀬川澄夫はGHQに6回にわたり取調べを受け、再びのタイ行きを求められたが、この要請を断ったという。
なお、帰国した大川塾生は「戦争犯罪人兼容疑者」として巣鴨に呼び出され、
拷問に近い取り調べを受けたものもいた。どうも、当局は大川塾生を特殊技能を持つスパイだと思っていたらしい。
大川塾生はスパイではなく武器もあつかえなかったが、しかし、優秀なのは確かで、皆語学に堪能だった。そういう優秀な人材が入隊すれば重要な任務に就いたはず――と連合軍側が考えるのは当然である。実際の日本軍は完全な年功序列で、大川塾生だろうが学者だろうが、皆、馬の尻を洗わせられるのである。岩崎陽二は取り調べ担当官から「君の若いのに驚いたが、地位の低いのにもあきれた、日本が負けるはずだ」といわれているが(玉居子精宏)、この指摘の通りである。
11月に進行麻痺に対するマラリヤ熱療法が、今月は梅毒そのものを駆逐する治療が行われている。
体重57瓩800。先月より1キロ増。
(日記、昭和22年12月2日)
大川周明、身長は180ぐらいあったという。
今日よりまたサルバルサン注射第1回。
(日記、昭和22年12月8日)
駆梅療法開始であるが、まだペニシリンが使用されていない。
熱療法以来散歩を止めて居たが今日から再開。
歯の手入れを決心し、今夕陳先生に診て貰い上の方総入歯とすることにした。
(日記、昭和22年12月6日)
かかりつけ歯科医は「陳先生」だ。松沢病院まで往診してもらうらしい。
サルバルサン第2回注射。
夕上歯1本を残して全部取去る。
(日記、昭和22年12月9日)
サルバルサン治療中の抜歯はOKらしい。
夕歯医者。根の残り居りし歯を1本抜く。
(日記、昭和22年12月11日)
12月12日は大川周明の逮捕日である。拘留も丸2年となった。
夕抜歯終る。1月13日に型を取ることとす。3千円前払す。
(日記、昭和22年12月13日)
陳先生、印象ぐらいすぐ採ってやって。
歯がないため食事不便を極む。
(日記、昭和22年12月17日)
何うして食事すれば無歯で胃腸をこわさぬことが出来るか。これが当面の問題だ。2ヶ月間歯がないのだから。
(日記、昭和22年12月18日)
いづれにせよ、戦争は東條一人で始めたような具合になって了った。誰も彼も反対したが戦争が始まったというのだから、こんな馬鹿げた話はない。日本を代表するA級の連中、実に永久の恥さらしどもだ。
(日記、昭和22年12月20日)
極めてマトモな大川の戦争責任論。敗戦後、責任のなすりあいに終始した戦争指導者たちこそ国辱である。昭和天皇も占領終了後は速やかに退位すべきであった。それをしなかったことがキョービの右翼台頭の一因だと思う。
それはともかく――こういう境地に立てたことは、大川周明が理性を取り戻したということなのだろう。というのも、大川は極東国際軍事裁判開廷日初日に東条英機の頭を2度叩いて狂気をあらわにしてその結果免訴となるのだが、あの公の場で初めて見せた狂気こそ大川の真情だったと思うのである。なぜなら、東条英機の不明のために対中和平工作は失敗し、敬愛する石原莞爾も盟友の長勇も左遷されたからだ。長勇など勝算なしの苛酷な前線に飛ばされ、最後は沖縄とともに日本の捨石となったのだ。おい東条おまえだよ、おまえに石原さんや長君の言うことを判るアタマがあれば、無条件降伏なんつうことにはなってないんだよ――病で理性の枷をはずされた大川は、その私怨と義憤と皮肉をこめて、東条を裁いてみせた。全世界が注目する国際法廷で。
サル注射第4回。
午前GHQの米人が来て逆瀬川・加藤ら泰に居た連中をまた盤谷にやって働かせたいと言うて来た。大賛成した。
(日記、昭和22年12月23日)
「逆瀬川」=大川塾一期生の逆瀬川澄夫。かつてタイで日刊紙を発行していた。
歯無しの状態半月、胃腸に少しく障害が出来そうだ。
(日記、昭和22年12月27日)
歯ナシで固形物が食べられない大川周明にスープ缶を持って来てくれたのは、
午前此前のGHQの米人来る。スープの缶詰をくれた。研究所のことを聞くため。
(日記、昭和22年12月29日)
GHQの米国人だった。「研究所」とは大川塾のこと。
午前例の米人コールフィールドさんを伴いて来る。
(日記、昭和22年12月31日)
「コールフィールドさん」とは、
開戦前のタイで工業用ダイヤモンド獲得に動いた五嶋徳二郎を助けたアメリカ人女性である、大川がタイに派遣される一期生に対し「タイに行ったらこの人の真似をするように」と紹介した人物でもある。
(玉居子精宏「大川周明 アジア独立の夢」)
逆瀬川澄夫はGHQに6回にわたり取調べを受け、再びのタイ行きを求められたが、この要請を断ったという。
なお、帰国した大川塾生は「戦争犯罪人兼容疑者」として巣鴨に呼び出され、
知り由もない辻政信大佐の行方をしつこく尋ねられ、次にシンガポール行きの船に乗せられた。船内では殴る蹴るに加え、眠くても眠らせない“不眠競争”の仕打ちを受けた。
(一期生・岩崎陽二のケース、玉居子精宏「大川周明 アジア独立の夢」)
拷問に近い取り調べを受けたものもいた。どうも、当局は大川塾生を特殊技能を持つスパイだと思っていたらしい。
大川塾生はスパイではなく武器もあつかえなかったが、しかし、優秀なのは確かで、皆語学に堪能だった。そういう優秀な人材が入隊すれば重要な任務に就いたはず――と連合軍側が考えるのは当然である。実際の日本軍は完全な年功序列で、大川塾生だろうが学者だろうが、皆、馬の尻を洗わせられるのである。岩崎陽二は取り調べ担当官から「君の若いのに驚いたが、地位の低いのにもあきれた、日本が負けるはずだ」といわれているが(玉居子精宏)、この指摘の通りである。