11時前に歯医者。割にすいていた。いよいよ上の歯を抜いた。これ1本でいいそうだ。従って義歯も割に早くできるらしい。しかし出血がなかなか止らぬ。
(略)
歯の出血が完全に停らないので、ビールも飲まず、原田とジョフレのバンタム級世界選手権の仕合を見た。
(昭和41年5月31日)
6月4日にカラーテレビを取り付けている。当時、大衆車、カラーテレビ、クーラーが新三種の神器だった。
▲カラーテレビ月間3万台を突破――昭和41年7月10日付朝日新聞。
朝は医者に行ったが、さんざん待った上、まだ型をとるのには早いというのでむだだった。
安倍能成先生今朝死す。
(昭和41年6月7日)
安倍能成は哲学者で学習院院長だが、
日立製作所海岸工場に成らせられ、この時お上のすぐお後にいたる1MP、同僚に煙草を請求し、続いて火を求めようとすると扈従していた安倍能成氏厳然として相当の大声にて「ノースモーキング」と一喝し、同MPの煙草を持っていた手を打った。そのMPは一旦真青になり続いて真赤になり昂奮して手に持っている棒で安倍氏を打たうとして黒田実君一生懸命にこれをなだめ、これは老人の一徹より云った事で、その理由はエムペラーがスモークされないからであると説いてやっと釈然とした。
一時はどうなることかと思ったが、これは誠に痛快であった。そして又反省して見て予にはこれだけの勇気の無いのを恥ぢざるを得なかった。
(昭和21年11月18日、入江侍従長日記)
拳銃持ったMPに臆しない、戦勝国に忖度しない、ペコペコしない人であった。
正午前に歯医者。今日はいつもの医師が休んでいて、弟さんがやっていたが、型をとって貰った。
(昭和41年6月13日)
「歯がすべてに優先」という境地に達しただけあって、
朝のうち歯医者に行く。一応義歯を入れてくれた。様子を見ることにする。
(昭和41年6月16日)
マメに歯科受診している。
4時半ごろ帰宅。歯医者。今日はおやじさんの先生がやってくれた。先日の義歯を調節。楽になった。
明朝早く韓国に飛ぶので、早目に寝る。
(昭和41年6月20日)
6月21日、矢部貞治は韓国に行っている。羽田空港からノースウェストで、金浦空港へ。フライトは2時間かかっている。公安審査会持ちの旅行で、韓国の中央情報部(CIA)長官などと面会。24日には板門店に行き、
米軍の施設のところで小憩し、将校の食堂で、カフェ・テリア式の中食をとる。ここからバスに同乗する。そこからは非武装地帯で、板門店までバスで15分くらいだが、胸にバッジをつけ、米軍と共産軍の検問所を通る。
直ぐ目の下に国連軍と共産軍の建物が7つほど並んでおり、青い色のが国連側が建てたもので緑色のが共産側の建物だという。直ぐ向うの右手の丘には共産軍の赤い徽章をつけた歩哨が立っており、左の小高い所の建物には、共産側の軍人が監視している。
青い建物の一つが停戦委員会の開かれる建物で、入ってみると、まん中に長いテーブルがあり、国連側から右に国連旗、左に共産旗が立っており、そのまん中が停戦ラインだということで、電線のようなもので区画されている。
(昭和41年6月21日)
8ミリで録画もしている。板門店の共同警備区域内が完全非武装化されたのは80年代だったはずだが、この時すでに観光地化していたらしい。ちなみに、昭和41年といえば中国で文化大革命が始まった年なので、北朝鮮側への影響の有無が気になるが、関連記載はない。
26日に韓国から帰国し、
新聞を一通り見て、11時前に歯医者に行ったが帰ったのは実に1時であった。2時間以上を要している。しかしこれでもう当分は最後だ。
(昭和41年7月2日)
7月2日に歯科受診した。この歯科受診は「当分は最後」ではなく、本当に最後となる。